出来事に対するとらえ方。
なぜ人は悩むのか?
なぜ人は「あー嫌だな」と感じるのか?
逆に、なぜ人は「うれしい」と感じるのか?
これは、物事に対してその瞬間、その人のとらえ方によって変わる気がする。
だから、同じような出来事が起きたとしても、その時のその人のとらえ方で「あー嫌だな」になるのか「あーうれしい」となるのか決まるのかなと思う。
とらえ方って何に左右されるのかな。
左右される要因の一つは、その人のその時の気分、体調なのかも。
うれしいと感じるのは、その人にとって起きても良くも悪くもないので考える必要はないかも。
じゃあ、「あー嫌だな」と感じるのは、なぜか。
ある出来事に対して自分の気持ち、考え方と違うからなのかも。
そして、そんなこと起きてほしくなかったと考えるからなのかな。
幸せにいたいからなのかな?
出来事は、自分が行動していること以外は、勝手に自分の外で起きていること。
天気もその一つ。勝手に起きていることに対して気が付き、わざわざいちゃもんをつけているだけなのかな。
じゃあ、子供が学校行きたくないと言っていることに対しては?
なぜ学校に行かなければいけないのか?
まずは勉強か?
しなくて困るのか?
親の気持ちは、子供が大人になり働くときに困らないかと気になっている。さらに言うなら、きっと自分たちがなりたくてもなれなかった職についてほしいと願うから?
結局、学校に行かないことに困っているのは一番親なのかも。
理由は、願うから!
じゃあ、どこも行かないのは?というのは、違う気がする。
その子が好きなことを探すこと、わくわくすることを探すこと、苦痛を感じないことを探しに行くのがいいのかな?
学校へ頑張っていけているは、それはそれでいい。学校へ行けていて、そこが一つの居場所と感じられれば。
学校の先生も親と似たところがあり、勉強をさせたいと願うからこうなる。
カリキュラムが決まっており、やらなければいけないという責任の圧力が先生にのしかかっていることも分かっているが、とりあえず淡々とやっていけばいい。やった事実だけではダメなのかな?
それよりも、子供たちが自分には得意なことも苦手なところもあると理解し、自分を受け入れる練習をしていってほしいと思う。それは、勉強でも学べると思う。この教科は自分は得意だけど、これは苦手。得意を伸ばしていけばいいと子供たちが考えれるようサポートの方をしていく方がいいやないかな?
だから、先生は淡々と授業をして授業の終わりは遊ぶのはどうなんやろ?
クラスは崩壊するんかな?
私ではわからない領域。
難しいな。
とりあえず、家事へもどろう。